103系Spotlight1 ハエ54編成惜別
旧形国電とはちょっと外れますが、昨年末廃車となり姿を消したハエ54編成の惜別特集として、旧車号の79607・72977・72978・79608から103系になり、川越線で活躍した画像をご紹介します。
72アコモ車とも呼ばれる72971〜980・79601〜610の2M2T編成5本20両は、仙石線の輸送改善用に74・75の両年度郡山工(富士重工)で改造され、投入された。車体は103系の高運車に合わせ、足回りは種車のものを使用した。塗色は山手線と同じ黄緑色で、ドアは両引戸だが地域の事情に合わせ半自動となった。後に原形73形同様前面に黄色の警戒色の帯を付けた。73形の廃車により、本物の103系の登場となり、そちらに合わせ塗色も青22号に変更された。最終的には85年春まで使用された後、運用から外れていたが、9月の埼京線・川越線電化開業用として白羽の矢が立ち、輸送量の関係からTcMM’cの3両編成の103系に改造される事になった。もどきからいよいよ本物の103系へ変身である。首都圏の3工場と新津工で改造され、その内大井工で改造された3001の編成は8月4日のきでん・入線試験に使用された。9月30日の電化開業とともに、ヘッドマークをつけた3連は大宮〜高麗川で活躍を始めた。翌86年3月に埼京線新宿延長があり、89年3月のダイヤ改正で3連の運用区間は川越〜高麗川に縮小された。
一方改造されず休車中のM車は、青梅・五日市線運用合理化のためMcM’Tcを4連化することになり、遅れて103系T車化改造を受け全車103系に仲間入りした。川越と豊田離れ離れとはいえ、それぞれ活躍の場を与えられたわけである。周りの電車が冷房化すると遅ればせながらこちらも、単独電源方式で冷房化された。戦列を離れたのは豊田のT車が早く、一時期電車区の片隅で不遇をかこっていた。川越線では、89年4月22日から毎週月曜日の朝の3往復だけT車を連結して4連で走る運用を設定し、当初は一般形のT車を3000番台と連結可能に改造して使用していたが、トタのT車が休車になると、92年夏頃から3005号車を借入れ使用を始めた。塗色は黄緑6号に変え、配置表記も北ハエとしていた。
川越線の4連化は、八高線電化による直通運転からが正式であるが、月曜日朝の71運用の限定使用、車両故障等による本線(埼京線)運用車の一時的な応援などがあり、95年の秋には2日間だけ沿線のゴルフ場の大会に備え日中走る運用3本を4連化した。この時の増結車両は前から来ている3005と3001・3003の3両であり、転属を前提に塗色も黄緑6号に塗り替えられていた。このまま4連になると思いきや、イベントが終わると所定の3連に戻され、3005を除き大宮運転区に他の2両(朱色)とともに留置され、本格使用に備え順次入場整備された。
96年3月16日の八高線電化用として、209系4本と103系3500番台1本計20両が増備されたが、103系3500番台は95年末には改造も終わり川越電車区に配属され56編成となり、1月17日から使用開始した。これより前、ATS-P増設入場など車両需給の関係から一般形の4連1本も57編成として、1月6日から3月24日まで使用された。
八高線電化後は運用区間も川越〜八王子・立川となったが、立川乗り入れは間もなく消滅し車内の運転系統図に残るのみである。その後103系全車に外幌の取り付けが行われている。
10本配置の9本使用と厳しい運用であり、入場中に車両故障や踏切事故等が起きると即、車両が足りなくなり比較的最近でもトタの朱色の103系や、黄色の103系が応援に駆けつけたことがあった。
北国育ちの103系は、暖房は強化してあり車内は暖かであったが、半自動扱い時ドアは非常に重く、しかも電磁弁にエアーが残っているのかきちんと閉まりきらない難点があった。その点を除けば編成単位の決まっている川越線のようなところでは手ごろな車だった言えるのではなかろうか。新しい身(車体)をまとってから既に29年を経過した車両もあり、丁度良い退け時と言えなくもない。
2.仙石線時代の姿
クハ79607(仙リハ) |
モハ72977(仙リハ) |
3.103系改造川越線へ 3両編成
4.103系T車改造 青梅・五日市線へ
5.4両編成化(八高線電化時にトタで休車中のT車をハエに転属全編成4連化した)
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