飯田線車輌小史(’50年代後半を中心に)

 私が車両に興味を持ち、記録をとり始めた昭和30年(1955年)頃から、上京するまでの5年間の飯田線と、同じ局管内の身延線の車両について、記憶と残っている記録を合わせてまとめてみました。
 ’55年は飯田線にとって歴史的な年であった。まず1月田本〜門島間で落石のため2両編成の電車(18003+14033)が川原に転落し、死傷者多数を出す大事故があり、4月に、元伊那電区間の天竜峡〜辰野間の電車線電圧が1200Vから1500Vに昇圧、期を同じくしてED31形が廃車となり、ED19形を迎えて、飯田線北部の貨物輸送力が増強された。11月には佐久間ダム建設に伴う付替区間が運輸営業を開始、営業キロは196qとなった。12月から、伊那松島機関区に集結していた社形電車の淘汰が始まった。当時、モハ1200形が11両、クハニ7200・7210が6両、クハ6112、鶴臨のクハ5500、ご当地伊那電のクハ5900形2両計21両がHL制御車として在籍し、国鉄形のCS制御車とは、完全に別運用であった。同じ社形とは言え、旧三信のクハ5800形はCS制御車であり、モハ14形と連結していた。廃車の第一陣はモハ1200とクハ6112の2両であり、補充は東鉄から11212と16435を迎えた。
 '51年頃から14形(当時は32形)を東鉄から受け入れ、更に向きを統一(飯田線において電動車を下り向き、即ち天竜川を遡るのに牽引する形)した静岡局では’55年頃までに、富士区には1号車から17号車まで(8・11・12欠)と100・110番台、豊橋区に18〜34(22・26欠)、伊那松島区に35〜41、中部天竜支区に最後の42〜45を配置していた。’54年から始まった14形の第二次更新修繕は、最初高屋根のままであったが、パンタグラフはトンネル断面の低い身延線用がPS11、標準断面の飯田線用がPS13を付けて出場した。翌55年から身延線用のモハ14形も、PS13パンタを装備出来る低屋根車に改造することになり、富士区の未更新車全数と、飯田線3区の未更新車は、必要数が揃うまで更新修繕の都度低屋根に改造され、富士区に集結、PS13装備でも元62形の100番台・元30形の110番台やPS11装備の14形は順次飯田線に集められていった。
’55年末の静岡局管内各区の配置車両を記す。
 富士区  

11052 11216 14002 14003 14004 14005 14007 14013 14014 14015
14016 14017 14034 14040 14041 14043 14100 14101 14110 14111
14114 14116 41016 44001 44002 44100
16451 47001 47002 47003 47005 47006 47007 47008 47009 47011
47012 47013 47061 47065 47067 47100 47102 47104 47106 47108
47110 47112 47114 47116 クエ9120

 豊橋区

11000 11008 11214 14001 14006 14018 14019 14020 14021 14024
14025 14028 14029 14030 14031 14032 13024 13025 13026
16119 16151 16161 16441 18001 18002 18010 18011 18051 18053
56001 56002 56003 56004 56011 56012 モニ3200 モニ3410 サエ9321

 中部天竜支区

14009 14042 14044 14045       18015 47057 47059 47063 サエ9320

 伊那松島区(赤字はHL制御の社形)

 1201  1202  1203  1204  1205  1206  1207  1208  1209  1210
 5500  5900  5901  7200  7201  7202  7203  7210  7211
11212 14010 14023 14035 14036 14037 14038 14039  1200
 5800  5801  5802  5803  5804 16435 18013 47023 サエ9330  6112

’56年中の静岡局関係の移動は、引き続き身延線への低屋根改造併施更新修繕施工車集中配置と、それに伴う転配、荷郵合造車の車種統一、飯田線快速用にクハ18形の更新修繕施工車の豊橋区配置等が行われた。車号の次の区名略号は転属元である。

富士区 14027トヨ 14038ママ 14030トヨ 14021トヨ 14013ママ 44004キマ
14037ママ 14019トヨ 14028トヨ 14025トヨ 42008イト
豊橋区 14015フシ 14100フシ 14101フシ 18013ママ 18015チウ 14110フシ
14114フシ 14116フシ 11216フシ 14111フシ
中部天竜区 18011トヨ
伊那松島区 14013フシ 14005フシ 18010トヨ 14018トヨ 1200 廃車 6112 廃車
北松本区 44100フシ

 ’57年1月、中部天竜区の47063と伊那松島区の18010を交換し、伊那松島区コロ軸受台車の第1号となった。惜しむらくはロングシートで、クロスシートであれば富士区に手放す事もなかったのではないか。続いて2月から3月にかけ豊橋区から快速用の座を明け渡した18013・18015の2両が中部天竜区に入り、47057・47059が玉突きで伊那松島区に転入した。
 4月15日、ダイヤ改正が行われ社形廃止の第二段となった。この時、モハ1200形5・クハ5900形2・クハニ7200形4の計11両が使命を了え当線から姿を消したが、5900形2両は折から開発中の交流電化の試験車として改造され、遠く仙山線作並へと旅だって行った。残るHL制御の社形は、M5・Tc3となるので、1206号車が方向転換しTc代用となって改正に備えた。2両編成4本で使用は91〜93運用の3本、運用区間は天竜峡以北となった。
 今回の廃車補充は42形・52形・47形と11・16形で、初めて大型電動車が入線する事になった。兄弟線区の身延線にはモハユニ44やモハ41016等が入っていたが、当飯田線は17メートル級の電動車ばかりであった。まず最初にモハ42008が富士電車区を経由して豊橋機関区に到着、続いて47071,47069が転入し、47071が14020と組んで2月14日快速31運用に、翌15日47069+42008も31運用に就き20メートル電動車の本格使用開始となった。その後3月に42形3両(9.11.13)も豊橋区に転入し、替わって11・14形が伊那松島機関区に転入した。モハ41016も’57年3月伊那松島区に転属し、同区初の20メートル電動車となった。なお富士区ではモハニとして働いており、転属直前モハに復帰している。
 社形置換直前の4月初め、天鉄鳳電車区よりモハ52004・52005が貨車回送で豊橋に到着した。この頃飯田線の国鉄形電車は電動車を辰野寄り(偶数向・下り向)、制御車を豊橋寄りにと編成を統一していたので、奇数車の52005は方向転換し偶数向にする必要があった。ところが豊橋に着いた車は、52004が奇数向52005が偶数向と逆向きであったという。鳳から発送した2両は、杉本町から竜華の操車場に入り、城東貨物線・吹田操・東海道線経由でも、吹操時点で向きが変わり、関西線を上っても名古屋(稲沢操)で逆向きとなる。通常阪和線の電車の出し入れは元の淀川電車区(京橋から分岐していた)を経由していたと思われ、竜操経由の貨車回送では向きが反転したのではないだろうか。豊橋機関区では当時蒸気機関車を保有しており、転車台もあったので、52004を方転し、52005はわたり線改造のため豊川分工に入場したという。このあたりは、故神谷静治さんの「流電52系姉妹の一代記−飯田線時代の記録から」(鉄道ファン464・465号)に詳しい。快速用に使用するはずの52形であったが、運転台が広過ぎるのが徒となり、一人乗務の運転士では単線区間の通過駅でのタブレット授受に支障をきたすと言うことで、急遽快速使用を止め、社形置換用として伊那松島区に転属となった。京阪神の急行電車から阪和線に移り、更に後輩の70形に追われて飯田線快速に活躍の場を求めて来たものの、それもかなわず伊那谷北端に近い伊那松島区に身を置くことになった52形2両は、16形や5800形と組んで働いた。この年5月3日の編成メモを見ると、16221+52004、5804+52005とある。続いて14日には47063+52005の20メートル車同士の編成も見られる。
 ’57年秋、まずモハ61003が9月6日天・鳳電車区から、続いて残りの流電3両がモハ61005と共に20日過ぎに伊那松島区に転属してきた。両運転台式の国鉄形は初登場であり、上り・下りどちら側でも使えるのが重宝で旧国最後まで残る事となった。61003の転入経路は不明だが、転入当時当線は、大嵐〜小和田間で長期不通となっており、中央西線経由しか考えられない。下り向きにパンタグラフを装備しており、辰野側が前位であった。52形3両は伊那松島到着時の向きは正当方向であり、前回と同じ貨車回送であったが、稲操から中央線経由で来たものと思われる。61005は当時の鉄道ピクトリアルの「車輌の動き」欄の常連で、移動の激しい車であったが、転入直後の車内の傷み具合は相当なもので、これではどこも使ってくれないなと思ったものである。幸いすぐに更新修繕のため豊川分工に入場した。11月中旬に出場したが、メモによるとパンタの位置が上り側に変わったとあり、更新入場の際、方転したものと思われる。10月にもう1両の61004も豊川分工での更新修繕を了え伊那松島区に転属してきた。こちらは61003と異なり、前述の61005とは同じようにパンタを上り側に載せていた。今(2002年11月)、故大那さんにいただいた2枚の写真を見ると、’56年3月三鷹区で撮ったのは下り向きにパンタが載っており明らかに偶数車扱い、’57年11月伊那松島で撮ったものは上り向きで奇数車扱いである。こちらも方転工事を更新修繕と同時に実施したのであろうか。今となっては、神谷さんに聞く術も無い。メモによると、10月5日豊川分工出場とある。当時の更新修繕入場期間はほぼ40日、入場前に富士区に立ち寄っているので、61003とは別ルートで鳳を発送されている。
 伊那松島区に集結した52形5両は、ほどなく豊橋区に転属する。これは快速電車の運転士2人乗務制が解決したからであり、第一陣は52001で10月7日、続いて入場中の52005が新快速色(窓上オレンジ・窓下ブルー)をまとって出場と同時に転属、11月には車両故障で臨時入場した52002が21日付け、1ヶ月後の12月21日に52003を送り出した。52004は年を越し’58年2月15日雪晴れの中を旅だった。補充は14形だったが、ほかに12月に東チタより43007・43009の2両を迎えた。7号車は転属、9号車は借入で、検査の関係か一旦はチタに戻り、翌’58年2月53000・53001・43025とともに正式に転属となった。
 豊橋区に移った52001は、茶色のままで、更新修繕と方転・塗替(窓回り下がブルー・上がオレンジの新快速色)を終え出場したばかりのクハ47002と組み、10月21日から待望の快速運用に就き、続いて52005が新快速色で出場と同時に転入し、25日から同様快速運用に就いた。10月に富士区から来た更新前の47108も、甲修繕で新快速色となり、快速に使用した。52002は車両故障による臨時入場で新快速色となり、出場と同時に転属、52003も12月甲修繕で新快速色となり、出場時に転属した。52003は、12月に東鉄から来た47070と組んだ。この47070は、転属前の10月に大井工で乙修繕を受けており、スカ色のまま快速に使用された。52004の転属は翌年となる。12月1日の快速運用は、31〜35の5本で42008・9・13・52001・5のM5両と47002・69・71・108と18051のTc5両合せて10両で、42011は40番台、52002は18002と編成を組み、50番台運用に使用されている。初期の快速用18形4両は入場の都度普通色に戻され、順次伊那松島区へ転属して行く。
 ’57年10月、東海道線三島〜浜松間の小運転が、富士電車区の14形+47形×3の6両編成で開始され、これに伴う転属も行われており、各区とも大忙しであったと思う。
’57年中の車両の動きをまとめると下記のようになる。(○は転出、△は転入を示す) 

年 月 車 号 富士区 豊橋区 中部天竜区 伊那松島区 他 局  備   考
57.1 18010         
  47063        
  16407       カノ○  
  42008       快速用
57.2 11052        
  14042       低屋根改造
  14024       低屋根改造
  14001        
57.9 14001        
57.2 47069       チタ○ 快速用
  47071       チタ○ 快速用
  18013        
  18015        
  47057        
57.12 47057        
57.2 47059        
   1700       トヤ○ 入換用
57.3 42009       イト○ 快速用
  42011       イト○ 快速用
  42013       チタ○ 快速用
  11202       イケ○  
  16471       カノ○  
57.10 16471        
57.3 16457       ヤコ○  
57.9 16457        
57.3 16469       ヤコ○  
57.9 16469        
57.3 14036       低屋根改造
  41016        
57.4 11008        
  14029        
  14031        
  14032        
  16161        
57.9 16161        
57.4 16221        
57.9 16221        
57.10 16221        
57.4 16257        
  52004       オト○  
  52005       オト○  
57.10 52005        
57.7 61004       オト○  
57.9 61004        
  14009        
  14010        
  16435        
  14005        
  14023        
  61003       オト○  
  61005       オト○  
  52001       オト○  
57.10 52001       快速用
57.9 52002       オト○  
57.11 52002       快速用
57.9 52003       オト○  
57.12 52003       快速用
57.10 47002       快速用
  47108       快速用
  14114        
  14116        
57.11 13034       ミハ○ 荷電
57.12 47021     イト○  
  14006        PS11
  16441         
  14032       PS13
  47102       快速用
  47070       チタ○ 快速用
  14100        
  18001        
  43007       イト○  
  43009       イト○ 借入

     上記の他、1202・1207・1208・1209・1210・7200・7201・7202・7203の
     社形9両とモニ3410(トヨ)が6月8日付けで廃車になり、8月に5900が吹田工場
     5901が大井工場へ入場した。

  ’58年に入り2月になると、伊那松島区では、まず15日夜鳳区から43039・53007・53008合の子3両を辰野経由の貨車回送で迎え、続いて22日にチタから53001+43025が、翌23日に43009+53000が転属して来て、一気に大型電動車のねぐらと化した。43025・39とも、元は奇数向であるが、下り向きで転入して来た。さて電動車は揃ったが、相棒となる制御車が供給元の東鉄からやって来ない。4月予定の社形置換は6月に延期になり、14日に運用の移り変わりとなった。予備の1205+5500は13日、1201+7211が14日92運用区入庫で置き換え当日夜、1204+7210は93運用の仕業中車交で区に取り込み16日、1203+1206は91運用で入庫後置き換え翌15日、それぞれ貨車回送で住み慣れた区を後にした。転入予定の制御車はクハ16形で、手狭な伊那松島区では事前に受け入れることもかなわず、豊橋区で待機している転入車を連日電動車が迎えに行く事で対処した。この時の転入車は16446・452・470・515・529の5両で、奇数向2・偶数向3の内訳であり、奇数向電動車は43007・9・53001・7の4両だから、未だ偶数向Tcが1両不足しており、Mc・Mc(どちらかがパンを降ろしTc代用)編成が見られた。53001+11008の編成では大型電動車がTc代用となる場合もあった。HL制御の社形車は全廃となったが、この時点では運用改正を行わず、豊橋区の快速運用車が出揃うのを待って8月に行った。
 改正前快速運用は、31〜35の2両編成5本運用であったが、豊橋〜辰野直通快速は2運用連結の4両で運行されており、日によっては52形同士が鼻を突き合わせる事もあり、4両貫通編成となることは珍しかった。これを貫通させるために、4両編成にした場合常に辰野方(下り向)に来る運用を31〜34、豊橋方となる運用を36〜38として、36+31のように編成を組み4両貫通を実現した。貫通となる車両は、42形と富士区から迎えた47形100番台5両(102・104・108・114・116)で、いずれもこの時期までには更新修繕を済ませ、更に114・116の2両は番号通りの下り向に方向転換した。同じ時期に豊川分工で更新修繕を受けた47100番台だが、身延線用に富士区に残った車は、変則の全室運転台に改造され、飯田線に来た車は貫通用に使用するため片隅式運転台のままであった。翌’59年1月16日のメモを見ると
    36  52003+47114    31  47102+52004
    37  47071+42008    32  47108+52002 
    38  42011+47116    33  42009+47002
                        34  47104+52005 
となっており、52001は入場中、42013は40番台運用に入っている。
 伊那松島区では、引き続き5800形の廃車も射程距離に入り、8月改正前後に東鉄から16形4両(474・523・557・561)と、豊橋区から47069を迎えるに及んで、順次運用を離れ旅立って行った。この改正で71〜82・91〜93の15運用となり、前者は全線通して、後者は平岡以北が運用区間となった。社形時代の91〜93運用は、手小荷物扱いも可能であったが、置き換え後はクハニが無くなってしまったので、16形に荷物室を付けることになり、第一陣は、矢向から転入間もない16557で、9月の乙修繕の際荷物室を設置、続いて豊橋の16257が、臨時修繕で9月に豊川分工に入場設置し、10月3日転入した。続いて16221が甲修繕で設置工事を併施し、同月24日転入した。代替車は東鉄から転入したばかりの16515・523の2両であった。遅れて16217が、’59年1月に蒲田から豊川分工で荷物室を設置後転入した。いずれも形式・番号とも変更されずクハ16形のままであった。この荷物室は先頭のドア部分のみで、すぐ仕切壁となり客室側座席に変更は無かった。運転台背面の荷室には、郵便区分棚も設けてあった。クハ5800形の運用離脱と廃車年月日を記す。
   5800   ’58年12月 8日               ’59年2月21日廃車
   5801   ’58年10月11日               ’59年2月21日廃車
   5802   ’58年 7月28日   8月1日発送    ’59年2月21日廃車
   5803   ’58年12月12日               ’59年2月21日廃車  
   5804   ’58年10月 7日               ’59年2月21日廃車

年 月 車 号 富士区 豊橋区 中部天竜区 伊那松島区 他 局 備     考
58.2 43039       オト○  
  53007       オト○  
  53008       オト○  
  52004       快速用
   2002       トヤ○ 入換用
  43009       イト○ 正式転属
  43025       チタ○  
  53000       チタ○  
  53001       チタ○  
  47022       イト○  
   5900       サミ△ 交直流試験車改造
   5901       サミ△ 交直流試験車改造
  18002        
  11212        
58.3 14100         
  47104       快速貫通用
  18051        
58.5 47116       快速貫通用
  18053        
  47059        
58.6 16470       イケ○  
  16515       ヤコ○  
58.10 16515       車両交換
58.6 16446       イケ○  
  16452       イケ○  
  16529       ヤコ○  
59.1 16529       車両交換
58.6 47114       快速貫通用
  47069        
  47063        
  48036       オト○  
   5500       シナ△ 救援車種車?
58.7 16561       ヤコ○  
59.1 16561       車両交換
58.7 16523       イケ○  
58.10 16523          車両交換
58.7  16427       イケ○  
  16485       ヤコ○  
  16221       車両交換
58.10 16221       荷物室設置後転属
58.7 16257        車両交換
58.10 16257       荷物室設置後転属
58.8 16487       イケ○  
  16474       ヤコ○  
  16557       ヤコ○  
58.11 47025       48036クハ改造
58.12 11258       イケ○  
  11266       イケ○  
  16473       カマ○  
  16447       モセ○  
  16407        
  16435        
  16217       カマ○ 荷物室設置入場
  16491       モセ○  
59.1 14110
14111
14018 運用増
18010       車両交換
  18011       車両交換
  18013       車両交換
  18015       車両交換

1959年
 荷物室設置車は、前年’58年の10月頃から順次90番台運用に就き、本年1月に16217の転属をもって使用3・予備1の配置が完了した。暮れから1月にかけて各区に亘る移動があり、主に厳寒の北部地区を担当する伊那松島区に2ドアクロスシート車が集められ、中部天竜区には富士区からトイレ付の16形2両と無しの3両を配置した。
 3月1日から豊橋区の快速運用が、4連固定編成化され、31〜33運用の3本12両使用となり両端52形が2本と42形を含む1本であった。
   31 47071+42008+42011+47070
   32 52001+47116+47108+52002
   33 52003+47114+47102+52004
 運転区間の長い当線区用に以前から制御車にトイレ設置が進められていたが、前年末クハ改造されたばかりの47025が2月に豊川分工へ入場し設置した。16446(59.11.21)・16470(59.12.7)・16452は翌’60年の2月に設置している。
 6月に称号規程の改正があり、新たに制御電動車「クモハ」形式が誕生し、形式・番号の車体標記も二段書きから横並びとなった。
 前年までの社形廃車に引き続き、元30形の11・16形や18形の廃車も始まり、まず豊橋区の11000・11052・16161、伊那松島区の11008と前述の5800形全5両が2月21日付けで廃車となった。11月27日付けで豊橋区の14100、伊那松島区で11008・18010・18011・18051が廃車となり、補充としてクハニ67形が3両転入した。これより前、5月に豊橋区へは明石区より60125が転入し、17メートル車の補充は、3扉ロングシートの40系列かと思われたが、後が続かなかった。
 押し迫った12月に48034が豊橋区に転入し、塗色替えなど入場整備後快速運用に使用され、翌年1月に47070が玉突きで伊那松島区に移動した。一方16形同士でトイレ設置の有無により、有の16446が伊那松島区へ、無の16474が豊橋区へと車両交換が行われている。
 「形式整理」が12月にあり、低屋根車は72形等と同じく800番台で区分することになり、身延線用の低屋根14形と44形は800番台になり、原形14形は0番台、大糸線の44003は44000に改番となった。現車の標記は正月過ぎから順次書き換えられていった。47形にも変化があり、原形はそのまま、サハ48改造の11〜13は欠番だった51・53・55を埋め、モハ30改造名義の新製車23はU代目11号車に。流電サロハ改造の21・22・25は製造順に153・155・151に改められた。また荷物室を設置した16形は、新形式クハニ19形となり、元30形の16200番台からの改造車が0番台、元65形から改造は50番台と区分された。ただ、正式に荷物合造車となった時点で、クハニ67形が転入してきており、本来の荷物運用の91〜93運用に就く機会は少なくなっていた。 

年 月 車 号 富士区 豊橋区 中部天竜区 伊那松島区 他 局 備    考
59.5 60125       アカ○  
  47002       車両交換
  16446          々
59.9 18015       貸渡車の正式転属
  16561         
59.10 67903       ヒナ○  
59.12 67901       ヒナ○  
  67905       ヒナ○  
  48034       チタ○ 快速用
  16446       トイレ設置車

1960年
 1月28日から30日にかけて、湘南形80系4両と東海形153系のサハ1両を含む5両編成による準急電車試運転が、全線を通して行われた。豊川までは正月臨等で入ることはあったが、通して走るのは初、まして5両編成は極め付きの初物であった。名カキの全金80系4両とサハ153−1の5両で、サハは準急のサボを付けたままであった。何故異車種のTを挟んで5両としたのかわからないが、豊橋寄りからTcMMTTcであり、残念ながらサハ153−1と80320以外車番の記録が無く、またネガも紛失してしまい調査の術がない。大嵐以北、線路有効長が80メートル以下の駅が多い中、あえて5両100メートルの試験編成を組成し、試運転に取り組んだ静岡局の意気込みをひしひしと感じたことであった。
 ’60年の車両移動は意外に少なく、1月豊橋区と伊那松島区で47070と16474の交換があり、2月に18013が伊那松島区から中部天竜支区へ、3月にはオメから11432・11444を豊橋区に迎え、暮れに大鉄より51069+68064を伊那松島区に迎えたのみである。戦争直後の混乱期を除き、’55年以降の転入11形は元31形の200番台のみであったが、今回DT10台車の400番台2両の転入は異質であったと言えよう。51・68形の転入は、一時国鉄部内でも大阪形と称された戦前形3扉セミクロスシート車の当線への第一陣である。

年 月 車 号 富士区 豊橋区 中部天竜区 伊那松島区 他 局 備  考
’60.1 47070       車両交換
  16474       トイレ無し
’60.2 18013        
  16529        
’60.3 11432       オメ○  
  11444       オメ○  
  14101       ’59年度中、月不明
  14001      
’60.12 51069       アカ○  
  68064       アカ○  
 

 この年3月に上京し、以後足繁く訪れるのは旧国末期である。途中14形や他の17メートル車の最後を見届けた訳ではない。が、いつ乗ってもお客さんがいっぱいだった頃、ダイヤ改正の都度増発・増結が当たり前だった頃の車両の動きをまとめて、続編としたい。下に、上京直前の3月の静岡局各区の配置車両を記し、小史Tを閉じることとする。 

富士区                 計  68
14000 14001 14002 14003 14004 14006 14010 14800 14801 14802
14803 14804 14805 14806 14807 14808 14809 14810 14811 14812
14813 14814 14815 14816 14817 14818 14819 14820 14821 14822
14823 44800 44801 44802           
16427 16441 16447 16451 16469 16471 16473 16485 16487 16529
16561 47001 47003 47005 47006 47007 47008 47009 47051
47053 47055 47057 47059 47061 47063 47065 47067 47100 47106
47110 47112 47153 47155   クエ9120        
豊橋区                 計  41
11202 11212 11214 11216 11258 11266 11432 11444     
42008 42009 42011 42013   52001 52002 52003 52004 52005
60125   1700   2002   13024 13025 13026 13034
16474 16515 16523   47071 47102 47104 47108 47114 47116
56001 56002 56003 56004 56011 56012   48034   サエ9321
中部天竜支区             計  11
14005 14007 14013 14014 14101          
16407 16435 16491   18013 18015   サエ9320    
伊那松島区               計  39
14008 14009 14011 14012 14110 14111 14114 14116   41016
43007 43009 43025 43039   53000 53001 53007 53008  
61003 61004 61005              
16446 16452 16470   18001 18002 18053   47002 47011
47069 47070 47151   19003 19005 19009 19055   67901
67903 67905   サエ9322            

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