我が生い立ちの記


 52003+47116+47108+52004(静トヨ) 1959年7月25日豊橋

 1941年秋、長野県上伊那郡赤穂町で生まれた私は、太平洋戦争末期国策で鉄道省の飯田線となった、元伊那電の赤穂駅に出征兵士を見送りに行く母や、近所のおばさん達の背で電車を見て育った。多少大きくなって一人で駅へ行けるようになると、柵に上り、貨物の入換や電車の行き来を飽かず眺めていたようであるが、今では凸形の電機、ダブルルーフの電車などかすかに覚えているだけである。
 小学校2年の春、大田切の駅近く今では公園となっている高台に引っ越し、大田切川の鉄橋を渡る列車を毎日俯瞰する事が出来るようになった。丁度東京や一部大阪から省線電車が入り始めた頃と重なるようで、省形電車の3両編成や、後にクハ改造されたサロハ66に乗り、車内に仕切りが残っていたのを想い出す。この想いは、最近発刊された先輩諸兄の幾多の旧形国電特集で補強され、意を強くしている。
 小学校5年の1953年5月、隣の宮田村に越したが、転入すべき宮田小学校は、当時上伊那郡内南部各地の小学校で行われていた「遠足旅行」と称する上諏訪遠足を既に了えていたので、1ヶ月余赤穂小学校に通い、遠足を了えた後、転校した。上諏訪機関区で見上げたD51の動輪の大きさに圧倒されたものである。
 宮田村では、上京するまでの7年間を過ごした。家は駅のすぐ近くで、毎日電車を見ていた。走る電車は、モハ32や93000で、伊那電引継のダブルルーフ車は姿を消していた。電機はED31・32・33で、特にED31形は重連で仕業に就いていた。間もなく電車の番号が書き換えられモハ32が14に、93000が1200になって行ったが、これが称号規程の改正によるものとは知る由もなかった。この頃になると、快速電車も運行され、営業用の3両編成はなくなっていた。
 中学生になり、同級生の父親が伊那松島機関区に勤めているのを知り、国鉄電車への傾斜を一気に強めて行く。’55年春休みに上京した折り、たまたま訪れた交通博物館の売店で鉄道ピクトリアルを購入したのがきっかけとなり、広い趣味の世界へ踏み出すことになった。その4月、元伊那電区間の天竜峡〜辰野間の電車線電圧が1200Vから1500Vに昇圧、期を同じくしてED31形が廃車となり、ED19形を迎えて、飯田線北部の輸送力が増強された。この’55年は飯田線にとって歴史的な年であった。11月には佐久間ダム建設に伴う付替区間が運輸営業を開始、営業キロは196qとなった。社形電車の廃車が始まり、補充は東鉄から11212と16435を迎えた。停車するたびにコンプレッサーの音がし、都会的な響きに聞こえたものである。故人となられた豊橋機関区の神谷さんにご教示をいただくようになったのもこの頃からである。
 高校に入って伊那北まで電車通学をするようになった’57年4月15日、ダイヤ改正が行われ社形廃止の第二段となった。残るHL制御の社形は、2両編成4本で使用は91〜93運用の3本、運用区間は天竜峡以北となった。この社形のドアは手動式で、走行中でも開閉でき腕白盛りの高校生にとっては夏は涼しく、駅員無配置駅の多い当線では車掌より早く降りて逃げ出せる、まさにキセル向きの電車であったが、運用が私の通学時間とは外れており、あまり乗った記憶は無い。むしろ記憶にあるのは、朝通学時に乗る127レで、豊橋区の快速運用を使用しており、東鉄から来たばかりの42形や、一緒に乗る弥生ヶ丘高校の女生徒の事ばかりである。
 阪和線鳳区から、流電の52004・5を迎えたのもこの改正であった。当初の快速使用予定から伊那松島区の社形置換用となり、茶色のまま使用された。小窓を見慣れた私にとって、客車並の広窓に驚き、乗務員室の広さに羨望を覚えた。その秋、残りの流電52001〜52003が転属し52形全5両が集結した。落ち着くかと思った矢先、本来の快速運用に再起用されることとなり豊橋区に転じた。その替わりとして、流電の先輩43形を迎えた。当然スカ色をまとっており、何故かこちらの方があか抜けた感じであった。翌年2月には東鉄から43・53を、天鉄鳳区から合いの子3両を迎え、色こそ違え、往年の急電を思い起こすには充分な役者揃えであった。
 ’58年6月、HL制御の社形が全廃となり、ここにようやくCS制御車への一本化がなった。豊橋区に集結した52形は装いも新たに快速に使用されたが、運用はあくまで2両単位。52形同士が向き合う4両編成も珍しくなく、相変わらず混雑する127レで通う通学生にとって、中間に入った52形の広すぎる運転台は怨嗟の的になる有様。それを解消したのが8月ダイヤ改正で、神谷さん達検修陣が満を持して臨んだ4両貫通運用であった。
 社形とは言え、クハ5800形の座席は背擦り部分が厚く、シート間隔も広いので、沿線の展望を楽しむには絶好であり、代用2等車からの改造という47057・59・63(飯田線在籍車)のロングシートより余程乗り心地が良かったが、寄る年波には勝てず、この年に消えていった。これらの代替車は、クハ16形であった。
 明けて’59年3月にダイヤ改正があり、我が通学列車127レの前に赤穂折返しの列車が設定された。2両編成ながら改正前の127レの救済には大いに役立った。129レとなった通学列車は相変わらず豊橋持ちの快速運用を使用しており、今改正で4両固定編成となった。
 高校2年の春休み期間中に伊勢・関西方面への修学旅行があり、2日間滞在した京都では、午後自由時間があり、2日とも神社・仏閣に向かわず、ひたすら駅で過ごした。夜行列車で郷里に向かう級友と京都駅で別れ、遠い親戚を訪ね大阪へ泊まった。翌日、伊那松島機関区の伊藤さんを通じてご教示をいただくようになっていた京都の小寺さんに初めてお会いし、新設間もない高槻電車区と、「こだま形」20系を見に宮原電車区へ連れて行っていただいた。高槻には、旧形や茶坊主のクハ76099、80系など様々な車種が出入りし、更に修学旅行用の82系もいた。胸弾ませて撮った写真だが、今のように自動巻取りではなく、焦って蓋を開けてしまったのか、露光してしまったものが多く残念である。阪急の十三駅から歩いて行った宮原電車区では、丁度第1こだまで下って来た編成が入庫しており、撮ることが出来た。構内は狭く、他車種を撮るわけにはいかなかったが、当時最新鋭のこだま形を間近に見、撮れたことに大感激であった。この時は東京回りで帰郷した。
 ローカル国鉄線のあちこちに、管理所制が布かれたのがこの頃で、当然飯田線にもそんな話が出てきた。全線196qを一所で管理する案で、新聞などにも報じられた。最終的には、中井侍以北の長野県内を所管する、若干権限の弱い管理長制となり、飯田線北部管理長が’59年5月14日赤穂駅構内に置かれた。当時の赤穂駅は、北部管理長管内では飯田駅に次ぐ規模で、局でもここに駐在運輸長を置いていたが、発展的解消と言うことで管理長制に移行した。元伊那電支社のレンガ建ての建物の一角を使用した。ここには、車掌区もあり、東寄りには変電所もあって、常に業務に携わる人達が行き交い、滞泊車両も多かった。その赤穂駅が、市名と同じに駒ヶ根駅と改称したのは10月1日のことである。直前の新聞には兵庫県の赤穂線赤穂駅との混同を避けるためと言うような記事があったが読み方が違い、距離も離れているのに何で?と思った。改称間もない頃、飯田線下り快速の車中で中年の方が車掌に「コマケネ」に行きたいがどう行ったら良いのか聞いている。そばで何気なく聞いている私も全然見当が付かない。一生懸命聞いている客がふとメモを取りだし、車掌に提示した。車掌はそれを見て「ああ、コマガネですね」とつぶやき、私もようやく安心したのを覚えている。
 6月に称号規程の改正があり、電動車にクモハの標記を見たときは一瞬目を疑い、パンタグラフの上昇を確認し、モーター音に耳をやる始末であった。(クハ79100番台となったサモハやクモハ、サハ78300番台になったサモハ等見たことも無かったが、叔母がいた鶴見線沿線ではしょっちゅうテシのクモハ16600を見ていた。28年の称号規程改正でクモハの標記は無くなっていたはずなのに、何故かいつまでも残っていたような気がする。)そんな思いで34年6月のクモハを見るとちゃんとパンは上がっているし、モーター音もする。不思議でならなかった。
 辰野から松島、伊那町へと伸ばして来た伊那電気軌道が、伊那電気鉄道と社名を変え、伊那町以南を軽便鉄道法に換えても、施設の脆弱さは変わらず、半径140メートル以下の曲線が多く、40パーミリの急勾配すら存在する。駅構内も同様で、線路有効長や、ホーム長の短い駅が多く、これを4両編成が停車・交換可能とする工事は、国鉄移管以来の懸案事項であったが、進み具合は遅々としていた。北部管理長は、その施策第一段としてホーム延長工事に取り組み、地元から要望の強い快速電車増発への布石を打った。ただ駅の前後に踏切を抱えているところは、どちらかを閉鎖せざるを得ず、難航した。澤駅のように線路有効長はあるものの、真ん中に踏切があり、下りホームの辰野寄りは民家で、すぐ8番ポイント、上り勾配となっており、ここ下りホームの延伸工事はかなり後になった気がする。上りホームだけは辰野寄りに延伸し、80メートル確保したのでは無かっただろうか?。ここで長編成(と言っても80メートル)同士の交換がある場合、下り列車が先に着き、上り列車がポイント上に停車客扱い後発車すると、下り列車が2両分ほど進んで停車し、後部2両の客扱いを済ませた後、羽場に向けて発車した(ような気がする)。この他、上片桐や鼎は上りホームが短く、客用ホームの先に伸びる貨物用の積み卸しホームを利用する突っ込み使用で対処していた。この場合、どっちを先に着けたか、また上り列車がポイント手前の停止位置で一旦停止したのかは知らないが、4両編成が入りきる位置まで進行し客扱い、下り列車が出発した後所定停止位置まで後退し発車した。貨物積み卸しホームの先に、分岐器を設ければと思うが、踏切とか民地、勾配などの障害が存在した。このような複雑な条件を抱えながら、’58・59の両年度に北殿・沢渡・七久保等数駅の改良工事が完成した。これら工事の完成を待って、’61年3月に待望の準急電車が運転開始となった。が、まず準急電車誕生に至るまでの試運転から記しておきたい。
 ’60年1月28日、伊那市駅上りホームで下り試運転電車を撮るべく待ちかまえる私の前に姿を現したのは、80系4連に東海形サハ153を夾んだ5両編成の電車であった。茶色一色の2・4両編成を見慣れた目には、まさに感動的とも言える一瞬であった。急いでシャッターを切り、下りホームに渡り、運転台付近を覗き込む。静岡局の客貨車課や電力・保線関係の方々、勿論出来たばかりの北部管理長室の面々等、多勢が添乗しておられる。発車までの数分間の休息を楽しまれる方や、トイレ休憩、はたまた先の試験項目の検討に余念のない方等、様々な中、この試運転の中心的人物である竹内さんをお見かけし、お声をかけたところ、ご好意により試運転電車に試乗させていただける事になった。天にも昇る心地で、クハ86形300番台に乗車した。編成は豊橋寄りからクハ86+モハ80+モハ80+サハ153+クハ86で80系はいずれも300番台、サハ153は1号車で、所属は名カキ。嬉しさのあまり、車号のメモさえ取っていない。客室にいても開け放たれた運転台から、きびきびした指示や、計測の数値が読み上げられる声が聞こえて来る。この試運転にかける局の意気込みがひしひしと伝わる思いであった。辰野では、折返し時間があり、宮木寄りの側線で各車の点検が行われた。ED33と並んで撮った写真が残っている。当日は飯田まで試運転が行われ、編成は1泊した。5両編成の試運転列車は、線路有効長を超える駅もあり、対向列車と交換する駅では、場内信号機で機外停車をし、開通後通過した。
 この年3月私は上京し、飯田線と離れた。たまに帰ることはあっても、ほとんど1泊でゆっくり電車を撮ることも無かった。
 翌’61年3月1日飯田線準急電車「伊那号」が名古屋〜辰野に運転開始となり、この1番電車に乗るべく私は前夜発の東海道線夜行列車で名古屋に向かった。名古屋駅上りホームでは発車1時間くらい前から出発式の準備が始まり、どんどん乗客や報道陣・見物客が集まってにぎわい始めた。発車15分位前に岐阜方から80系4連が回送で入線してきた。テープカットが行われ、運転士に花束贈呈が行われた後、ほぼ満席の乗客を乗せて606T辰野行は8時45分定刻に発車した。80系300番台車は三河路を快調にひた走り、豊橋は上り2番線に到着折返し作業を始めた。ここでもテープカットがあり、列車番号は606Tのまま、向きを変えて出発。豊川を出ると、早速単線区間となり駅通過の度にタブレット交換に忙しい。改正前の快速217Mとそんなに変わらないスジである。途中で若干の入換わりはあったものの、空席はほとんど見えないまま、春未だ浅い伊那路へと入る。天竜峡では、奥の電留線に前日までの立役者流電52系4連が淋しく休んでいる。改正前の上り快速が天竜峡止まりとなって、間合留置と思い当たる。南信の雄、飯田に着くと歓迎一色であり、可成りの乗り込みもあった。右に左にアルプスの展望を楽しみながら1年前までいた宮田をとりあえず通過し、終点辰野まで乗車する事とした。右に仙丈や東駒ヶ岳(伊那谷では決して甲斐駒とは言わない。同様に宮田村の駒ヶ岳は西駒であって、木曽駒ではない)を見、天竜川が近づいて離れると間もなく終点の辰野である。ちょっと様子が違うなと眺めると、元の飯田線ホームではなく、本屋側に面した中央線下り1番ホームの東側の元貨物ホームを飯田線用に改修使用した模様である。昨年の3月は未だ長く、古い跨線橋を渡った気がするが、今、東へ伸びる跨線橋は無い。折返し名古屋行の出発を見送った後、外へ出て、宮木寄りの電留線へ向かう。昨年暮れ大鉄局より転入してきた2両編成が留置してある。駐泊所に許可を得て、飯田線に初めて入った大阪形の51069と68064を撮った。51系と呼ばれる基本番台車では無いが、3扉セミクロスシート車の飯田線での地歩を築いた車であった。
 それ以降、慌ただしく帰省するのみで、ゆっくりする暇もなく、やがて結婚・子育てと息付く暇もないうちに10有余年経過し、’74年のゴールデンウィークに何故か休暇が取れ、久しぶりに信州各地を撮り歩いたが、中でも地元飯田線の車窓に魅せられた。再発見の旅と言って良いだろう。この時は、中央西線が電化し名古屋から茅野行の臨時急行(しらかば号165系4連)や、「伊那号」が大発展し飯田までは7連が走っていたので、主にそれを撮りに来たのだが、飯田線に乗ると、線路際に山ツツジやレンゲツツジまでもが咲いており、東の南ア・西の中アとも真っ白な頂を見せてくれている。住んでいるときには何も感じなかった一つ一つに新たな魅力を感じ、伊那谷の良さ、更にそれをゆっくり味あわせてくれる飯田線の旧形電車に一段とのめり込んでしまった。驚いたのは3両編成が復活していたことで、豊橋持ちの荷郵合造車40番台運用が3両になっていた。北部では4両が限度なので、この運用単独で使うしかなく輸送力は大丈夫かな?と思ったりしたが、既に団塊世代の通学ピークは過ぎ、特に問題では無かったのであろう。
 この旅が転機となり、またあちこち出歩くようになり、まず手始めは両毛線、小山から入り70形に揺られたり、撮ったりしながら新前橋に着き、しばらくすると修学旅行色のような70形が来るではないか!!。大喜びで乗り込むと新ナカの70形である。高崎まで行けばこの車にも会えるんだと、以降時刻表を調べながら、何回か通うこととなる。当然新幹線の出来る前で「とき」も「あさま」も181系の時代、かなり頻繁に来るが、目的はシマやナカの70形であり、ナノの80形とあって、特急形は見るだけの車であった。
  ’75年3月新幹線の博多開業前に、大阪・岡山・広島・下関と回り、各地の旧形や80形、改正で消える列車群を撮り、帰途名古屋で降りて、スカ色に塗られた72形を撮った。そのまま豊橋へ行き、流電52に会った。久しぶりの再会であったが、編成中間にはサハ75や48が入り、往年のイメージとは若干違って感じられた。
 かって、準急や急行として走った80形300番台が再び飯田線を、今度はローカル用として走るようになった’78年、長年当線の女王であった流電52や42形等旧形国電の半数が廃車となり、残った旧国は伊那松島機関区に集結した。休車となった旧国はすぐ廃車回送された車もあったが、静岡局管内のあちこちに疎開留置されていた。大船工場で解体されるべく横浜まで回送で上ってきた流電もあり、その姿を見るのは辛かった。
 春の飯田線も良かったが、晩秋の車窓も記憶に残る。飯田周辺には大きな銀杏の木が多かったのか、真っ黄色の樹と白壁の軒につるされた赤い干し柿や大根。アルプスの頂は白いのに、中腹以下は紅葉と、見事な色の対比に、ただただみとれていたのは旧国末期の’82年で、この頃はどこへ行っても、鉄道ファンばかりで、特に田切のカーブはすごかった。流電52を追いやった80形が一足先に’83年早々廃車が始まり、遅れて伊那松島機関区の旧国が続き、7月1日をもって完全に置き換えられたようである。ただし夏休み期間中は何回かお別れ運転が催された。伊那松島機関区は、旧国廃車で配置が無くなり、乗務員区として再発足した。私は5月末に訪れたのが最後で、お別れ運転には行っていない。
 80形や旧国を追った165系は既に無く、119系も色を塗り替え、新宿や名古屋・長野に直通した急行群は高速バスに様変わりし、通勤の足は車に変わり、頼みの通学客も少子高齢化現象で減少の一途とか、生まれ育った駒ヶ根駅が、出面1人夜間は無人駅という現状を聞くと、寂しさがひとしお極まる。

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