飯田線を走った車両達その9 荷郵電

(56・64形)

 飯田線独自の形式であるクハユニ56形は、1〜4と11・12の6両が在籍した。その内、1〜4はクハニ67形から、11・12はモハユニ61形(実際にはクハユニ61)からの改造である。
 クハニ67形は、常磐線電化用として1936年モハ41・クハ55と共に2両製作され、松戸区に配置された。この内No1は荷室側の客用扉が狭く、56001に改造されてからも'58年の更新修繕までそのままの状態であった。'39年度に67003〜8の6両が製造されたが、同時期の他形式車両と同じく、いわゆるノーシル・ノーヘッダーの美しい車体であった。戦災で8号車を失い、戦後1・3〜5の4両が飯田線用荷郵合造車の種車として豊橋区に転じた。改造は広い荷物室を二分し、郵便室を設けた。形式はサロハ56形の消滅で空きとなっていた「56」をもらい、クハユニ56形の1〜4として誕生した。施工は豊川分工で'51年の事である。
 一方、モハユニ61形は、横須賀線モハユニ44形の増備の形で3両計画されたが、既に戦時色濃厚な時期で、1扉クロスシートの44形は望むべくも無く、40系列の一員として、2扉ロングシートで誕生した。しかも落成は予定より大幅に遅れ、電装できたのは最初の1両のみで、後の2両は実質的にはクハユニ61として、'44年度に出場したと言う。この未電装の2両(61002・3)がクハユニ56形の11・12号車に生れ変った。
 唯1両電動車として残ったモハユニ61001は、44形4両と共に中部地区身延線・大糸南線で使われる事になり田町区を去った。'50年代後半の荷郵合造車の配置は、身延線が電動車3両、大糸南線電動車2両、飯田線が制御車で6両となっていた。
 '53年の車両称号規定改正で61001は、モハ40形の出力増強形に形式を譲り、機能的に似ているモハユニ44形に編入され、44100になった。'55年1月の配置表では富士電車区所属で身延線使用、また同じ年に発行の車両形式図によるとセミクロスシートを整備している。
 形式統一の観点から'56年に長キマの44004と交換で大糸南線に移り、同線の特殊事情から密連を自連に取り替え、44003と共に活躍した。(北松本区の受持工場は長野工で、当時篠ノ井線は未電化であり、工場の入出場は貨車回送を余儀無くされ、この関係から連結器はかなり後まで自動連結器を使用していたー'59年の信濃四谷電化開業時は自連、翌年夏の信濃森上開業時は密連の記録有り。)
 '59年末の番号整理により、同僚の44003は44000となったが44100はそのままで、'60年度に長野工において両運化改造を受け新形式64(U代目)形となり、トップナンバー「000」を名乗った。この両運化は電関代用の為だったのか、飯田線のクモニ13形と同じく貨車を従えて走る記録などを目にしたが、こちらは「2等郵便荷物制御電動車」であり、奇異な感じを受けたものである。'68年9月に44000を低屋根改造を経て富士電車区に送り出した後も、両運の特徴を活かし荷電代用等に使われ、'70年夏にクモユニ81003をシマから迎え、9月7日付けで遠く岡山電車区へ転じた。
 岡山では51形等と赤穂線で活躍し、受持の吹田工場色を身にまとい、'77年9月静岡運転所に転じた。構内入換や受持の大船工場への入出場の控え車として茶色のまま1年弱働き、翌78年8月第一次置換え直前に、終の棲家となる伊那松島機関区へ移動した。なお、この時季の活躍振りは、「ななまる」さんの[おいらの70形電車・12番線臨電「クモハユニ64000の里帰り」]に詳しい。
 身延線・大糸南線では偶数車、両運化後の大糸線・岡山地区・静岡所でも一貫して、丸妻側を偶数向きとして使用されて来たが、飯田線で荷郵運用に入るには56形と同じく奇数向きに方転する必要があった。
 '78年秋の第一次置換えでは、80形を豊橋機関区に、荷郵運用を含む旧形を伊那松島機関区に集中、中部天竜支区は機関区昇格とともに配置ゼロとした。10月1日から豊橋区に80形が転入し始め、廃車予定の旧形も同日付けで豊橋区に集結、生残る荷郵合造車クハユニ56形6両は10月19日付けで伊那松島区に転属となった。豊橋区では41〜45運用の5両使用であったが、伊那松島区では1運用増え91〜96の配置7・使用6となった。この時までには方向転換を済ませているはずである。
 飯田線での64000は、離れ離れになっていた兄弟2両と一緒になって本来業務の郵便逓送をこなすなど、最後の安穏の時を過ごせたのでは無いだろうか。転入後もしばらくは茶色のままであったが、'81年9月浜松工でスカ色となって旧国最後の時まで働いている。 

モハユニ44100クモハユニ64000

大糸線下りモハユニ44100+16+11+16(長キマ) 1958.5.4松本
大糸線下り出発クモハユニ64000+60+55+55+60(長キマ)
1968.10.27松本(奈良原氏撮影)
赤穂線で使用時 51+48+58050+51+クモハユニ64000(岡オカ)
1970.10.1 岡山(小林道雄氏撮影)
クモハユニ64000(静ママ) 1979.8.16伊那北
クモハユニ64000(静ママ) 1979.8.16伊那北
クモハユニ64000(静ママ) 1981.7.23伊那松島機関区
クモハユニ64000(静ママ) 1981.7.25伊那市
クモハユニ64000(静ママ) 1982.1.16駒ヶ根
クモハユニ64000(静ママ) 1982.1.16駒ヶ根
クモハユニ64000(静ママ) 1982.11.13天竜峡
1984.2.19廃車(静・伊那松島機関区)

クハユニ56形

クハユニ56001(静トヨ) 59.3宮田
クハユニ56001(静トヨ) 76.4.25飯島
クハユニ56001(静トヨ) 82.1.16辰野
83.8.25付廃車(静・伊那松島機関区)
クハユニ56002(静トヨ) 65.8.16小町屋
クハユニ56002(静トヨ) 76.5.29駒ヶ根
クハユニ56002(静ママ) 82.9.10豊橋
クハユニ56002(静ママ) 83.2.19辰野
クハユニ56002(静ママ) 83.2.20駒ヶ根
1984.1.18付廃車(静・伊那松島機関区)
クハユニ56003(静トヨ)標記 76.4.25駒ヶ根
クハユニ56003(静トヨ)
1976.5.24駒ヶ根
クハユニ56003(静ママ) 81.7.23伊那松島機関区
クハユニ56003(静ママ) 82.11.13伊那松島
クハユニ56003(静ママ)正面 82.11.13伊那松島
クハユニ56003(静ママ) 83.5.21川岸
84.2.10付廃車(静・伊那松島機関区)
クハユニ56004(静トヨ) 59.3宮田
クハユニ56004(静トヨ) 59.11.15天竜峡
クハユニ56004(静トヨ) 76.5.19飯島
クハユニ56004(静ママ) 81.7.12上諏訪
83.8.31付廃車(静・伊那松島機関区)
クハユニ56011(静トヨ) 59.11宮田
クハユニ56011(静トヨ) 76.5.29伊那市
クハユニ56011(静ママ) 82.9.10豊橋
クハユニ56011(静ママ) 83.2.19伊那市
クハユニ56011(静ママ) 83.5.22駒ヶ根
83.11.29付廃車(静・伊那松島機関区)
クハユニ56012(静トヨ) 59.3赤穂
クハユニ56012(静ママ) 79.8.16伊那北
クハユニ56012(静ママ) 81.7.26伊那市
クハユニ56012(静ママ) 82.11.15天竜峡 クハユニ56012(静ママ) 83.5.22天竜峡
クハユニ56012(静ママ) 1983.5.22天竜峡
1983.10.26廃車(静・伊那松島機関区)

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